今年も母の友人、与論島のなへさん95歳から、マンゴーが届いた。
母は、北海道の鮭や、馬鈴薯を送ったそうだ。
与論のマンゴーは別格だ。丁寧に大切に育てられたのがよくわかる。
だって、これが規格外のハネモンだというのだから。
ほかの南西諸島の産地からお取り寄せした通常品でも、こんなにきれいな状態では届いたことがない。
実は、なへさんと母は、リアルにあったことがまだない。
電話では時折話してはいるものの、直接会ったとか、昔からの知り合いだったということではない。
間接的な出会いで、知り合ってから、まだ5年ほどの間柄である。
でも、もう、あっちに行ったら逢おうね、なんて約束までしているらしい。
ニライカナイが万国共通の世界であることを祈ろうと思う。
なへさんの長男である、まっちゃんと私が出会ったのは8年前の東シナ海洋上の船、フェリーなみのうえの船室だった。
私は那覇から、まっちゃんは、故郷帰りしていたの与論島から当時住んでいた鹿児島市への帰路で、同じ船室で、およそ20時間を一緒に過ごしたのがすべての縁の始まりだった。
何もすることのない深夜の船室に見知らぬ男が二人きり。偶然酒豪だった二人は、自然と酒盛りとなるわけで。
何やら気のあった二人の親交はこれにとどまらず、私が北海道へ帰った後も続いていた。
彼からは島酒が、私からは北海道の地酒が、南と北にそれぞれ届く。
ある日、宅急便で山ほどの南国の品々が届いた。
きび酢、黒糖、モリンガ麺などなど・・・。
あら、まっちゃん、また何か送ってくれたんだ、どら、と送り主を見ると与論からだが、まっちゃんじゃない。なんで?と思っていたら、外から帰ってきた母が、「あら、きてたの?」という。
「沖縄からでも二日で届くんだねえ」とも・・・。
キツネにつままれた顔をしていたら、母が「焼酎送ってくれるおにいちゃんのお母さんからだよ」という。
よくよく話を聞いたら、いつの間にか、なへさんとFAX友になっていて、「文通」していたそうだ。
まっちゃんに電話したら、そうらしいね・・・と。
そのころ、なへさんは、脳卒中で倒れた夫と二人暮らしで、島で子牛の養育をしながら生計を立てていた。その子牛は、ある程度大きくなると、先島諸島の黒島に売られて、条件によっては、石垣牛になること、なんて話まで知っている母に驚かされたりもした。
それからしばらくして、まっちゃんは島へ帰郷した。お父様がなくなり、なへさんひとりきりになったからだ。
今は時々親子げんかしながらも元気に島の牛飼いになっているらしい。
そんな与論の親子から、届く季節の便り。縁とは奇なり、である。
蛇足ではあるが、8年前にまっちゃんとの出会いの舞台となったフェリーなみのうえは、韓国に売却され、SEWOL(セウォル、세월)号として運行されていたが、その後、悲劇の舞台として負の脚光を浴びることとなる。
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